シングル・ディジット（華氏一桁の寒さ）

　「へい、ちひろ！　今日はそんなに寒いかい？」
　ダウンのロングコートに、帽子、手袋、ぐるぐる巻きにして目元しか出さないマフラ
ー姿の私にクラスメートがからかいの言葉を投げかける。そりゃ、寒いに決まってるよ
。こっちは、寒さに鈍感な西洋人と違って、生粋のアジア人なんだから、圧倒的にその
感覚には敏感なんだ。格好なんかにかまってられない。それに今日は、なんたってシン
グル・ディジットなんだから。

　昨年、８月下旬の残暑厳しい中、ボストンにやってきてから、ずっと心配だったこと
は、この地の冬の寒さ。テレビで今日の天気予報をチェックすると「シングル・ディジ
ットが予想される」とか。シングル・ディジットとは華氏１桁代の寒さのことで、摂氏
−１２度以下の世界のことである。日本の真ん中からやってきた私にとっては、ほとん
ど想像できないこの寒さ。そもそも寒さ・暑さというのは、あまり感覚的に思い出しに
くいものである。夏の暑苦しい時期に、凍えるようなスキー場の寒さを思い出して涼し
くなることはありえないし、冬の日本からハワイへ出かけるにも、Tシャツ１枚の世界
はなんとなく実感できない。しかし、その地の気温に置かれてしまえば、それなりにな
じんでいくものである。

 昨年１２月までは、零度前後の気温で、思ったほどの寒さではないなと、たかをくくっ
ていた。が、甘かった。年が明けた２００３年冬は、例年にない大雪と寒さで北米東海
岸は、かなりダメージを受けた。ボストンの人々が寒さや積雪に慣れているとはいえ、
今年の大雪には、空港は閉鎖、道路は混乱、そして２年ぶりに大学は休校となった。除
雪にかかる費用は膨れ上がり、解けた雪の排水はままならず、街は水浸し。なんとも無
残な様子である。

　にもかかわらず、この雪は素晴らしい景色をももらたらす。大雪の後は、かならず雲
ひとつ無い澄み切った空が広がり、例外なく一面に降った雪へ、まぶしいばかりの光を
惜しみなく注ぐ。青く抜けるような空と染み一つない純白の雪、そして、その色の対比
の美しさ。ボストンの中心を流れるチャールズリバーは、あまりの寒さによって
川面に分厚い氷が張り、その上に大雪が積もり、向こう岸まで大雪原が広がる。そ
して川下のはるか向こうにはボストン・ダウンタウンの高層ビル群が広がる.

　あんなに寒がりの私でさえ、例年にないこの寒さにも慣れ、こういった景色に触れ、
多いにエンジョイしている。シングル・ディジットもこの景色の代償としては悪くない。

（「生活と環境」　２００３年３月号）